広島原子爆弾被爆75周年記念日に想うこと

昭和20年8月6日広島に原子爆弾が投下されてから今日で75年。 私がまだ4歳8か月のときでした。当日母は早朝からラジオの修理に街へ出かける予定でした。 私は当時胃腸が弱くその日も2階の寝間に寝かされていました。そのため母も出かけるのが遅れていました。 窓が開いていて、僅かに空が見えていました。私は戦死した父が飛行機乗りだったことから、飛行機を見るのが大好きで、その日も窓越しに飛行機が飛んでくるのを心待ちにしていました。 敵機なのか味方の飛行機なのか見分け方もしりませんでした。 が、飛行機が飛んでゆくのが見えたと思う間もなく、すごい爆発音と地響きがして空が一面真っ赤に燃え上がりました。 私の寝ていた部屋も、母屋が藁ぶきであったため一瞬にして火の海となり、階下への階段も降りれない状態でした。 母は窓から布団を何枚も下へ投げてその上に私を抱いて飛び降りたのでした。 爆弾が投下されたのだとわかっても、まだ何がどうなっているのか誰にも分りませんでした
私たちの住んでいた家の庭にも防空壕がありましたが、火事のため使えず少し離れた防空壕へと逃げ込みました。中はひどいやけどを負った人や泣き叫ぶ子供連れの人たちですぐにいっぱいになりました。「水をください」「水をくれ」と叫ぶ声で溢れていました。 ひどい火傷を負いながらも、赤ちゃんだけは無傷の母子がいました。 被爆した瞬間に運よく赤ちゃんは金だらいの下敷きになり助かったのだそうでした
幸い母も私も被爆の瞬間、室内にいたためやけどを負わずにすみました。あとで知ったのですが、学徒動員で出動していた従姉は戸外での作業中に被爆、家族がやっと探し当てて手当てをしましたが、全身ひどい火傷を負っていてとうとう助かることはありませんでした。 ままごと遊びをしてくれた優しい姉さんでした。また従兄は同じく学徒動員の作業中だったものの、幸いにも被爆の瞬間に頭だけは建物の陰にあり、背中に大やけどを負ったものの一命をとりとめることが出来たことは正に奇跡でした。
被爆後どのくらいの期間防空壕で過ごしたのか定かではありませんが、トイレに行くのが大変だったことを覚えています。近くの焼け残った家のトイレを借りたのですが、爆風で大きく傾いたままのトイレは、辺りの壁につかまりながら用を足すのがすとても怖かったです。また数日後、自宅の後を訪ね何か使えるものが残ってないか探しに行きましたが。何も残ってはいませんでした。ただ不思議に思い出すのは黒焦げの塊の中に何枚か積み上げられたレコード盤がそのままの形で焼け落ちていた異様な光景が今も印象に残っています。おそらくダンスが好きだった母の集めていたタンゴやワルツのレコードだったのでしょう。子供心にもこの生き地獄のような様を目にしたことは、長い間悪夢となって夜中にうなされました。 しかしやがて小学校に入り、戦後の新しい生活に慣れるにつれて怖かった記憶も徐々に消えてゆきました。あれから75年もう戦争体験した世代は少なくなり、戦争の悲惨さもすっかり忘れ去られ、復旧とともに昭和後半の豊かさに浸りきってきた記憶の中で、近年の長期デフレ、自然災害多発、更に一触即発の危機に直面している世界を見るとき、先行きに不安を感じてしまうのは私だけでしょうか。人類は歴史に学ぶことが出来ないのでしょうか。いや大丈夫,きっと明るい世界を築くことが出来る。。。と信じたいです。

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