長崎原爆投下後75年記念日を迎えて

広島で被爆した後、間もなくして中国で満鉄関係の仕事をしていた母方の叔父が、祖母とともに引き上げてきました。 叔父は土木関係の技術者でしたが、帰国してきたとき脊椎カリエスという病気にかかっていたため、温泉療法が良いのではということから、九州大分の別府温泉に四人でしばらく逗留した後、祖母の昔の知人をたより、長崎県の雲仙のふもとの温泉地愛野村へと引っ越してきました。 これが第二の被爆地長崎が私にとっての故郷となった不思議な経緯でした。 現在の雲仙市愛野町です。島原鉄道の「愛野駅」の次は「吾妻駅」で、続けて読むと「愛しの吾妻」と良縁をもたらす縁起の良い地名として「特別な乗車券」が売り出されているそうです。当時の思い出として今も覚えていることは、村にステージだけのオープンな芝居舞台があって夕方になると流しの芸人が人情ものの芝居をやっていて、村人達はござを敷いて、お酒片手に見物していたことです。そして時には、見物人同士が酒の勢いで喧嘩をしだし、酒瓶を石にたたきつけて割ってナイフ代わりに暴れることがあったりしたことです。 しかし概してのどかな田舎生活でした。 日中の空き時間には、舞台へ上がり歌手のマネや、芝居の台詞のまねごとをしたりして遊んでいたことです。
この地に一年ほど滞在した後、叔父の病気治療のため大村国立病院への入院手続きがやっと出来、一家4人で大村へと引っ越しました。戦後まだ間もなくのこと、病院には多くの従軍兵士や、引揚者の入院者がおおぜいいました。祖母と私は、叔父の付き添いとして病院内に住むこととなり母だけが仕事をしながら別居することとなりました。 私はこの病院から、間もなく大村小学校へ通学することとなりました。学校までは
片道約一時間弱かかりましたが、友達の中にはもっと遠方から通っている者もいて遠足の時、バスに小一時間乗り着いた山間の村から毎日通っていると知り驚いたものでした。 
病院内に住んでいると、当然色々な医療廃棄物が、当時は割と無造作に廊下に出ていたりして、使用済みの注射器や、プレパラート・ガラス容器など格好の遊び道具として触れることも多かったようでした。その結果だったのか、2年生になると小児結核にかかり、しばらく入院することとなってしまいました。 やっと3年生の途中から復学することが出来、低学年であったことも幸いしてか落第せずにすみました。これに懲りて病院での生活を卒業して、叔父も病状回復できたのを機に、小学校に少し近い前船津という海邊の漁村に引っ越しました。 台所とトイレの他はひと部屋だけのこじんまりした家でした。相変わらず叔父と祖母との三人暮らしでした。漁村なので近所の子供達は皆水泳が得意で、板切れをボート代わりにし海で遊んでいました。私は病気で運動も控え気味だったこともあり仲間外れになることが多かったように思います。それでも魚釣りやすぐ前の歩いて渡れる寺島は格好の遊び場所で次第に友達と時間を忘れて海遊びを楽しんだのでした。雲丹が真っ黒な体に、針だらけで捕まえると、その針がすぐに折れて手に刺さること、まるで蛇みたいなハモ、イソギンチャク、ナマコなど海の珍しい生き物にじかに触れながら覚えたのは楽しい体験でした。母はこの当時長崎市へ出て働いていたため、偶に帰ってくるのを待ちこがれながら過ごした日々でした。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

なるほど(納得、参考になった、ヘー)

この記事へのコメント